◆なぜセラピストに?◆

なぜセラピストに !? .....それは過去の人生体験によるものです。

まず初めに、ちょっと長くなりますが、ここに至る迄の人生の歴史を書いてみたいと思います。

私の人生の歴史

人は人生の中で何度か失敗や挫折を味わいますよネ。

私の場合二度の離婚は、大きな挫折だったかもしれません。

最初の結婚では、多くを知らずして結婚した為、彼に多額の借金があった事、知りませんでした。

「結婚」を軽く捉えていた私の幼さ故でした。

その為、当時(株)リクルートに勤めていた私は、昼の仕事以外にも、夜も働かなければ借金を返済出来ない状態になってしまいました。

働けど々金利しか返済出来ず、やがて彼は仕事への意欲も失くし、働かなくなってしまったので、借金を背負ったままでしたが、離婚する事に・・・

その後、趣味を通し新たな出会いを経て、再婚に至りました。 彼は父親を亡くし、母一人子一人の生活をしていました。

彼の母親は病気で、寝たり起きたりの生活をしていた為、結婚直後から義母の介護が始まりました。

以降、9年以上の介護を経て、義母はだんだんと回復して行き、病気で寝込む事もほとんどなくなってきました。

すると、ある日「 私の夢は孫と遊ぶ事! 楽しみだったのに、子供が出来ないのなら出て行って!」と義母から言われてしまいました。

もう40代も半ば近くにあった私は、そう言われて・・・ショックではありましたが、おそらく もう妊娠は無理だろう!と思い、家を出る事を決意しました。

夫婦の関係は悪くはなかったのですが、一人っ子である夫が、母親を置いて 私と一緒に家を出る筈もなく、仕方なく実家に戻り、二度目の離婚に至りました。

実家に戻って半年後、今度は私の母親が倒れてしまい、そこから今度は母の介護が始まりました。

脳梗塞から、だんだんと認知症を発症し、まるで子供に返って行くような母に、だんだんと愛おしい気持ちが湧いてくるようになりました。

子どものいない私に、母は子育ての体験をさせてくれているように感じました。

私は時には娘、時には祖母、或いはヘルパーさんの役を母に合わせて演じる事を楽しみました。

母親との時間は楽しく、ヘルパーさんにも加わってもらい、大笑いしたものでした。

ところが、母の介護と同時に父親・きょうだいとの確執が起きてしまいました。

当時の自分の気持ちを分析すると、父親をはじめ、きょうだいに対し、「時には母を看てもらいたい!少しは楽させて! たまには遊びに行きたい!・・・」等と甘えていた気持ち、依存心があったのですネ。

もし自分が母一人子一人の家庭だったなら、最初からそんな甘えた気持ちにはならなかった事でしょう。

腹をくくる事は、簡単だったはずです。

母親との介護は楽しいのに、家族との確執に精神的に追い詰められ、クタクタになってしまいました。

ストレスが一杯々になったある時、フト自分の中に誰かを頼ろうとする「甘え/依存心」があるから、やってもらえなかった時、ガッカリするんだ・・・から、もうやめよう! もういい! 一人でも母の面倒をみよう!と、やっと腹を括る事が出来ました。

すると そう 決めた事で気持ちがと~っても楽になりました。人を当てにしないってこんなに楽なんだ~!と知りました。

それ以降、家族に文句を言う事も、そういう思いも無くなりました・・・と言うより、そこにエネルギーを使う事自体が、もったいないと思うようになりました。

なぜなら、それはかなりのエネルギーを要しますから、介護で疲れているので余計なエネルギーを使いたくない・・・と、そう思い、静かに暮らすようにしました。

そう決心してから、以前は「なぜ手伝おうとしないの !? 手伝って当たり前でしょ !?」と言う気持ちから、「やってくれなくて当たり前!」と視点を変えた事で、今度は誰かが手伝ってくれると、感謝の気持ちが湧いて来て「ありがとう!」と、自然に言えている自分の変化に驚きました。

何も言わなくなった私の変化にある時父が、「看ているから、いいよ! 休んでおいで!」と、優しい言葉をかけてくれるようになり、期待していなかっただけに「驚き」と「感動」を覚えました。

やっと父と気持ちが通じ合えるようになり、それ以降 父はずい分変わってきました。

それからは父と二人三脚で母親の介護が出来るようになり、時々は私も時間が持てるようになりました。

そうして不思議な事に、この決意をした時まるで神様からのプレゼントのように、新しい恋人が出来たのです。

それが今の主人です。

彼はブリスベンに住んでいて、何度も日本を訪れてくれては、介護も手伝ってくれました。

母を抱いて移動を手伝ってくれたり、私の精神的な支えになってくれました。

やがて2年 3年と月日が経ち、結婚の話も出て来るようになってきたのですが、介護があるので・・・と迷っていました。

ですが、彼の母親も高齢で、もし亡くなってしまったら・・・

きっと後悔するだろうナ~!と考え、それなら「式だけ 先に挙げましょう!」と言う話になり、準備を始める事にしました。

母は軽い脳梗塞を何度か起こしてはいたのですが、結婚式を予定していた半年前、突然 重い脳梗塞を起こしてしまい、病院で寝たきりになってしまいました。

もう話す事も出来なくなってしまいました。

只、完全看護状態でしたし容態も安定していたので、病院側に事情を説明し、式が終わったら帰国しますので・・・

それまでお願いします!と母の看護を頼みました。

そうしてブリスベンでの式には家族も出席してくれて、無事に終わらせる事が出来ました。

それから3日後、そろそろ帰国の準備に入ろうとしていた矢先、先に帰国していたきょうだいから、それまで安定していた母の様態が急変したとの連絡、至急帰国してほしいと・・・

危篤状態になってしまいました。

私たちは後を追うからと、父に先に帰国してもらい・・・父はその足で病院へ。  母は父の帰国を待っていてくれたのでしょう。

大きな荒い呼吸をしていたそうですが、会う事が叶い、そしてその翌日、大きな呼吸をした後、静かに息を引き取ったとの連絡がありました。

父が母に会う為には、父の乗った飛行機が最後のフライトでした。

私は最後の瞬間に立ち会う事は出来ませんでしたが、長年 母の介護をしてきたので、おそらく母は「もう いいから・・・そっちで新たな生活をスタートさせなさい!」と私を解放してくれたように感じました。

母が私達の式迄は、頑張って生きていてくれて・・・そうして全てが終わった後、私が新たな生活をスタート出来るように・・・と、まるで計らってくれたかのように、逝ってしまいました。

とても不思議な感覚でした。

それは、私たちの結婚式からちょうど1週間後でしたから、結婚式~お葬式と慌ただしかった私53歳の初夏の出来事でした。

赤ちゃんや寝たきりになってしまったお年寄り・・・つまり自分で自分の事が出来なくなった人は、「人にお世話になっているだけではないのよ!・・・実は立派に愛を教える仕事をしているのよ!」と教えてくれた人がいましたが、まさにその通りだと思いましたネ。

全てのターニングポイントは母の介護から・・・多くを教えてもらいましたから。

脳梗塞~認知症になった事で、顕在意識~潜在意識に・・・だんだんと子どもの頃に戻って行った母、元気だった頃には決して見せなかった母の本音は、こんなにも可愛くて面白かったのかと、隠されていた母の本音も知る事が出来ただけでも、本当に良かったです!

人生山あれば谷、それは結婚して3年目の秋、日本帰国時は、いつも健康診断を済ませて来るのですが、乳がん健診の結果、5 mm の乳がんが見つかりました。

日本に居たら「いつでも健診は受けられるから・・・」と、きっと頻繁には受けなかった事でしょう。 もしオーストラリアで何かあったらと不安があったので、帰国の度に、成人病検診等チェックしていました・・・それが良かったのでしょう。

執刀医の先生が『 見つけてくれた先生には感謝だよ!5 mm の腫瘍を見つけるのは大変なんだから・・・ 』と言われました。

不幸中の幸いでした。

5 mm と小さなガンでしたが、もし温存療法を選択した場合、抗がん剤治療等と併用しなければなりません。

1回で済ませたいのなら、抗がん剤治療等をオーストラリアで・・・望まないのなら、全摘出手術を選ぶしかありませんでした。

その後「乳がんセミナー」に出席した折、皆さんから「 5 mm で全摘なんて凄い~!」と言われました。

多くの患者さんは温存療法を選択し、抗がん剤治療と併用していた為、カツラをかぶっていました。

そうして再発をし、中には手術が3回目と言う人もいました。

私も日本に住んでいたら、温存療法を選択していたかもしれません。

オーストラリアに引っ越した為に命を救われたのかもしれません。 「乳がん」と言われて、初めて「死」を意識しました。

やはりショックでしたネ!

アメリカでは最近乳がんになると、両乳房共全摘出する人が増えていると聞いています。やはり温存療法はリスクが伴いますから・・・

人生は時には想像していた以上に ずっとドラマティックですネ。

2016年、今度は父親が転び入院したとの連絡が入り、急いで日本へ・・・

父は91歳1人で生活していました。

週3日のデーサービスに、園芸と「書」の趣味があり、毎日習字に、ガーデニング・・・と、生活を楽しんでいました。

が、家の前の道路清掃中に転び、脊髄圧迫骨折をし、治療~リハビリと、入院も長くなり、車椅子生活になってしまいました。

自宅は3階、もう階段を上がる事は無理なので、施設を探し近所に決めました。

新築の施設で個室もあり、父が最初の入所者となりました。

父は長年何でも一人でやってきた為、人を頼る事が出来ず、自分でやろうと立ち上がっては転び・・・を繰り返し、その度に病院に呼び出されました。

施設で、主人と仲良しのおじいちゃんと(右側/ 戦後GHQから頼まれてマッカーサー元帥と東条英機総理の通訳をしていた方です。)

もう個室は無理だナ!と、隣の駅近くにある住宅型介護施設に移る事にしました。

デーサービス付きで、昼は皆と一緒に歌ったり・絵を書いたり・・・と、いろいろな事が出来、「楽しい!」と言ってくれたので、やっと安堵致しました。

父は昔から町内会の仕事をしており、ご近所さん達との繋がりもあり、家の前の通り「ふれあいロード」を造ったり、道路を舗装し電灯を付け・・・と、町内会~商店会の仕事にも力を入れていました。

年初めに「新年会」に呼ばれ、車椅子を押して私も参加させてもらいました。

すると「お父さんが来たョ!」とご近所さん達から大歓迎を受けました・・・中には泣いていた人もいました。

私の所にも来てくれて、「お父さんにはさんざんお世話になったのよ!」「本当にいろいろと面倒をみてもらったの・・・助けてもらったのョ!・・・」等と、大勢の方から町内会で父がしてきた事を聞かされました。

今迄家に居て無口な父しか知らなかったので、そんなに地元に貢献し、皆さんから好かれていたんだ~!知らなかった~!

母の介護では喧嘩ばかりしていましたし、父の悪い所ばかりに目が行っていたので、この「新年会」で、父の ”人となり” を知る良い機会となりました。

新年会で町会の皆様と

父の施設も決まり、そろそろブリスベンに帰ろうとしていた時、いろいろな思いがよぎりました。

もしかしたらこのまま会えなくなるかも・・・・・と、父に今までのお礼を伝えなければ、後悔しない為にも・・・そう思い父に「お父さん、こんなに地域の為に働いていたんだネ!皆お父さんに感謝していたョ!

私も、長年、育ててくれて、ここまでしてくれて本当にありがとうネ! 感謝しているョ。 本当にご苦労様でした。・・・」と、いろいろな思いが湧きあがり胸が一杯になりました。

父も嬉しそうな顔をしながら「うん うん」とうなずいていました。

でも、不思議な事はこの後だったのです。

気持ちを伝えられた事で、胸の中がスッキリしました。

そうして、時間が経てば経つ程、私が嫌いだった父の短所・・・が、どうでもよくなってきたのです。

あんなに嫌で見ないように、触れないようにしていた父の短所でさえ、目糞鼻糞(汚い表現ですが)、何でそんなに気になっていたんだろう !? と。

あんなに喧嘩してきたのに・・・、そう・・・やっと俯瞰して父を見られるようになったのですネ。  今は気にしていた自分が変だったのか !? と思う位、全く・・・何も気にならなくなりました。

不思議です。本当に不思議です。

今では父親の事を思うと「尊敬」と言う言葉にさえ・・・変わってきています。

私はこのような結婚・離婚~再婚・再々婚・・・介護、そして乳がん・・・そして叉介護・・・と、経験してきました。

まだ On the way ! ですが・・・(笑)

最初に書きました「失敗や挫折」・・・と、でもその失敗・挫折が無かったら、今の幸せはなかったはず・・・と考えると、実は失敗も挫折も無いんだ!と言う事に気づきました。

そこで立ち止まったり・逃げたり・諦めたりしてしまうから、そう思う(失敗・挫折)のであって、でも、実はそれを乗り越えた先にこそ、本当の幸せがあるんだ!と言う事を身を持って学ばせて頂きました。

これら、さまざまな経験を通して、同じように悩み・苦しんでいる方達に、少しでも寄り添う事が出来れば・・・と、いつしか自然とそう思えるようになって来ました。

1回のあなたの貴重な人生、ちょっとした視点を変える事により、暗闇から光輝く人生に変える事も可能なのだ!という事をお伝えできれば!と、願っております。

私のターニングポイントとなりました母の介護を通して学べた事、その時に視点を変えた事により、その後の人生が変わってしまった事、そして現在はブリスベン(オーストラリア)で、主人を通しイタリア人社会の素敵な習慣 等に触れ、日本と違った視点から、日本・日本人を見られるようになってきた事で、叉 違った視点からのアドバイスもしてみたい・・・と、そんな風に思えるようになった事・・・・・・・・・・

長々としたためましたが、これが、なぜ 私がセラピストになろう!と思ったのか、の理由です。